· 

50年前の杉本キャンパスと私

50年前の杉本キャンパス

生活科学部同窓会会長 小西洋太郎

団塊の世代の私は大阪府立生野高校を卒業後、一浪して1969年大阪市立大学生活科学部(旧家政学部)に入学しました。当時の杉本キャンパスは一言で言うと喧騒の世界でした。立て看板にアジ演説、ヘルメットにゲバ棒を持ったグループのシュプレヒコール。火炎瓶で本館地区も椰子の木も燃えたことがありました。教養地区や本館地区は木製の重い机と椅子でバリケードが築かれていましたが、人ひとりが通れるほどの通路を通ってキャンパス内に入ることができました。

青空討論会や自主講座が開かれていましたが、半年間授業がないことが分かると、数人の転学者や退学者が出ました。しかし、私は大学を辞めることは考えませんでした。もう二度と受験勉強はご免だったし、授業料(1ヶ月1000円)は高校時代よりも安かったし、それに陸上競技部に入部したからです。将来のことを考える時間は4年間ある、ゆっくり考えようと思いましたね。午前中は図書館で語学力の維持に努め、昼食は学生食堂で済ませ、午後は部活という、奇妙で規則正しい生活が半年間続きました。10月に入って、大学の要請で機動隊が出動し、杉本地区全館の封鎖が解除されました。いよいよ授業が始まったのですが、通年4単位の講義は前期分と合わせて2コマ連続で受講しなければなりませんでした(教える側もたいへんだったと思います)。

授業が始まりキャンパスに学生が戻ってきましたが、相変わらずクラブ優先の生活でしたので、栄養士に必要な講義・実習はほとんど履修せず、卒業に必要な最低単位しか取りませんでした。しかしよくよく考えると、このまま社会に出ても役に立たないと思い、2回生のころ一念発起し、大学院進学を決意し食品栄養学分野の研究職をめざしました。そして徳島大学大学院で博士学位(生化学の分野)を取得し、幸運にも同大学に新設された歯学部生化学講座の助手を3年間勤めました。徳島生活6年半の後、またまた幸運にも故郷の大阪市立大学生活科学部助手に採用され、澱粉科学の大御所で恩師の不破英次教授(食品科学講座)のもとで研究・教育に携わることができました。2015年定年退職まで34年間、優秀な学生に恵まれ、逆に学生に教えられたことも多くありました。またベルギー留学、ブラジル、中国での在外研究は、研究もさることながら、異国の人と文化に接する得難い体験でした。

最後に大学生活を支えるクラブについて。大阪公立大学になって多くのクラブは統合したと聞いています。陸上部もOB・OG会も統合され、選手たちのいっそうの活躍と支援体制ができたものと期待しています。最後まで自己紹介的駄文であることをお詫びします。